公開: 2020年5月16日
更新: 2020年5月18日
1904年の2月から1905年の9月まで、日本はヨーロッパの大国、ロシアとの戦争を戦いました。ロシア帝国は、その頃、中国東北部から朝鮮半島への利権を拡大しようとしていました。清国との戦争に勝った日本は、朝鮮半島での支配を強め、中国南東部の遼東半島における利権を得ました。しかし、ロシア帝国などの外交的な介入によって、日本は遼東半島に得た権益を手放さざるを得ませんでした。日本が手放した遼東半島における権益を、ロシア帝国がすぐに獲得し、中国東北部まで伸びていたロシアのシベリア鉄道を遼東半島まで拡張し、遼東半島の軍港、旅順港の利用権をロシア帝国は、中国から得ていました。
朝鮮半島における支配権を確立しようと考えていた日本にとって、ロシア帝国の遼東半島への進出は、大きな脅威(きょうい)となりました。遼東半島は、朝鮮との国境に近く、強大なロシア軍が朝鮮半島に攻めて来るかも知れないからでした。朝鮮半島での支配権を守りたかった日本政府は、アメリカ合衆国やイギリスの外交的な支援を受けて、ロシア帝国との戦争を開始することを決め、1904年の2月、遼東半島の旅順など、中国東部への攻撃を開始し、日露戦争が始まりました。ロシア帝国にとって、極東での日本との戦争は、大事件ではなく、近代的な装備を持ったロシア軍は、日本軍には負けないと考えていました。
戦争が始まると、貧弱な兵器しか持っていなかった日本の陸軍も、大量の兵士を投入して、辛抱(しんぼう)強く戦い、ロシア軍を少しずつ、中国北部へ追いつめてゆくことができました。近代的な装備を導入し始めていた日本海軍は、北ヨーロッパからアフリカやインドを経由して日本に接近して来たロシアのバルチック艦隊を、対馬沖で迎え撃ち、大打撃を与えました。この日本海海戦の敗北によって、ロシア国内での国民の戦争に対する意欲はなくなりつつありました。さらに、米国のルーズベルト大統領の助言で、日本軍は、ロシア帝国の領土であったカラフト島を攻め、カラフト島南部を支配しました。
戦意を失いつつあったロシア帝国と、多額の戦費を投入し、国力の限界に達していた日本は、ルーズベルト米国大統領の仲介で、1905年8月から米国のポーツマスにおいて、終戦のための条約締結交渉に入りました。日本からは、外務大臣であった小村寿太郎が代表として出席しました。日本軍の国内への侵攻がない状況で、「日本軍がこの戦争に勝った」と主張することは難しく、交渉は難航しました。日本国内では、ロシア帝国からの賠償金獲得(ばいしょうきんかくとく)の世論が強く、戦勝国として、日本が何を得るのかが注目されていました。ルーズベルト大統領の助言もあり、小村外務大臣は、南カラフトを日本の領土とすること、朝鮮半島における支配権を認めさせること、遼東半島における日本の利権と南満州鉄道の運営権を譲(ゆず)り受けることで、合意をし、講和条約を締結しました。
日本政府の財政状況を知らなかった日本の人々は、講和条約の内容に不満を持ちました。さらに、ヨーロッパの大国、ロシア帝国との戦争に勝ったことから、日本の国民は、日本の国力がヨーロッパ諸国に近づいたと、考えるようになったようです。このころから、一部の日本人の間で、「日本は神の国である」「日本は戦争に負けない」「日本は、天皇を唯一の支配者としている国である」「日本は、ヨーロッパ諸国に肩を並べられる、東洋の唯一のくにである」などの、国家的な信仰が生まれ、第2次世界大戦に敗戦するまで、日本国民はその幻想を持ち続けました。